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東京家庭裁判所 昭和49年(家)7477号 審判

申立人 古関うめ(仮名)

事件本人 青木賢一(仮名) 昭三八・一・七生

主文

申立人が未成年者青木賢一を養子とすることを許可する。

理由

申立人は主文同旨の審判を求めた。

筆頭者青木和雄、同古関秀和の各戸籍謄本および申立人、青木和雄、青木陽子の各審問結果によると、次の各事実を認めることができる。

一、申立人は古関秀和(明治三三年八月二七日生)と昭和三七年一月二九日婚姻したが、双方間に子はなく、秀和と先妻明子との間に長女青木陽子(大正一五年一〇月二一日生)と二女があること、

二、しかして古関秀和は昭和四四年九月三日死亡し、右先妻との間の長女、二女はいずれもすでに婚姻して別に居住し、申立人のみが前記住所地において手伝人と二人で居住していること、

三、亡古関秀和は戦前いわゆる古関家一一家の一つである古関家を承継し、古関物産、古関信託銀行等の役員を勤めたが、戦後は離職し家制度も廃止されたものの、徳川時代から三〇〇年余にわたつて引継がれてきた家柄は社会的経済的にその実質において引継がれて現在に至り、同人死亡後は申立人が現住居地にある土地、家屋の資産を承継するとともに、古関系会社より支給されてきた名義料配当金を承継取得して現在月額金二〇万円の支給を受けていること、

四、亡夫古関秀和は、実子が女子ばかりで前記のとおりすでに婚姻して別に暮しているため、後嗣として長女青木陽子の長男である本件未成年者青木賢一をかねてより養子にしたいと強く望み、実父母の青木和雄陽子もこのことを承諾していたが、賢一がいまだ幼少であつたため、もう少し成長してからと待つうちに、突然前記のとおり昭和四四年九月三日死亡してしまつたこと、

五、未成年者賢一はその住居もきわめて近いところにあつて、幼少のころから亡古関秀和および申立人とはよくなつき、特に秀和にとつては未成年賢一が事実上養子であるような感覚であつたこと、

六、未成年者賢一は現在小学校六年になるが、申立人と縁組してその養子となり、その結果「古関」姓となるとともに、亡古関秀和の後を嗣ぐことになることの自覚を有していること、

七、申立人は亡夫古関秀和の遺志でもあるから、未成年者賢一と養子縁組することにより、前記資産を同人に将来承継させることはもちろん、社会的に存在する古関家一一家の一つとしての社会的、経済的利益を同人に帰属せしめるようにしたいと考えていること。

なお申立人は未成年者賢一と養子縁組した後は、自ら引取つて監護養育することも考えられるが、同人の年齢等から考えていましばらくは実父母のもとでの監護養育が適当であると考え、実父母青木和雄、陽子もその意向であること、

八、青木和雄は会社役員をし、妻陽子との間に長男賢一のほか長女静江があるが、陽子の妹には子がなく、夫婦ともに結婚当時からの亡古関秀和の意志をも考慮し、是非申立人と長男賢一との縁組を許可してほしいと考えていること、そしてもちろん申立人とは一体的な親族関係は維持し、未成年者賢一の監護養育には全面的に協力していきたいと考えていること、

以上認定事実によれば、本件養子縁組はいわゆる家名承継的な要素はぬぐえない。しかし、本件養子縁組はもともと亡古関秀和と未成年者青木賢一との間の養子縁組を希求したことに起因するものであり、両者間には賢一出生当時よりその話が出て事実上養親子関係が発生していたのであり、祖父孫関係にある両名はいつでも代諾縁組届出により縁組関係を成立せしめることができたのであるが、賢一の立場を尊重し、同人が縁組の意味を一応理解できる年齢に達するまで待つことにするうちに、秀和が死亡してしまつたものであること、申立人はかかる夫秀和の妻として同様未成年者賢一にはきわめて親密な関係は維持してきたこと、未成年者賢一自身申立人との縁組の意味について理解をし、それを了承していること、そして本件縁組により未成年者賢一に帰属し、また将来帰属するであろう社会的経済的利益は大きいものであること等を考慮すると、右消極的要素の存在をもつて直ちに本件縁組を不許可とするのは妥当ではない。本件の場合かかる要素は縁組許可の平面を越えた分野において解決を図られるべきものが少なくなく、かえつて未成年者賢一の福祉利益という平面からすると、関係者の諸般の事情と相俟つて、本件縁組は未成年者賢一の利益にかなうものといわなければならない。

よつて主文のとおり審判する。

(家事審判官 渡瀬勲)

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